キリ番

あるサイトでキリ番をゲットしてしまった。けど恥ずかしくて何もコメントとか残せなかった。いや、一度は残したのだけれど、消せたものだから速攻で一度アップしたコメントを取り下げた。僕は卑怯者だ。その人のサイトでは特にキリ番だからといって記念に何かやるというわけではないらしいのが不幸中の幸いだ。あ、それなら別になんてこと無いのか。むしろ僕は始めて他人様のサイトでキリ番をゲットしたものだから喜んでこんなものを書いてるような気がしてきた。けど、今気づいてないだけで明日になったら急遽何かを始めるような気がする。いや、僕がそれを望んでいるのか。訳がわからない。どうしよう、こんなときは。今から伝えるなんて到底できない。今頃になってキリ番ゲットしたのは僕だなんて言い出せない。ああ、その人がキリ番なんて気にしない人でありますように。こんなのは欺瞞だ。祈ると手がキーボードで塞がる。何かをするべきだ。ああ、今も手がキーボードで塞がっているのにそれをやめられない。必要なのは拝跪ではなく、釈明であるはずだ。けれど、僕は一体何に祈っているのだろう。少なくとも僕はクリスチャンではない。僕の母は層化だ。僕も小学校の頃は朝学校に行く前に、勤行と題目をあげていた。けれど、もちろん今はやっていない。今訳も分からず祈っているのだって、決してそんなものに対してではない筈だ。一体何に向けて僕は祈っているのだろう。いや、やっぱり祈ることをタイピングに見立てたことがおかしいのだ。けれど、僕は祈っていた、そしてそれはキーボードを叩く行為だったことに間違いは無いはずだ。だとしたら祈ることとタイピングに違いは無いことになってしまう。僕に神は在るのだろうか。けれど僕にはそれを認識できない。最後に誤解しないでほしいが、僕は自分自身を無神論者だと規定しているのだ。これは誤解されたくないことだ。一体何を書いているんだろう。そうか、書いているのか。祈っているのでもなくタイピングしているのでもなく。書かなくてはいけないのにその力が無い。能力ではなく。無能なのだ。つまるところ。