続・はてな砂漠の由来について

昨日の自分のエントリーを読み返してみて驚いた。これのどこが「はてな砂漠の由来」だというのだろうか。「はてな砂漠」というブログタイトルの由来について書いている箇所を抜き出せば、「偶然の一致」の一言で済まされている。これはまことにそのとおりであり、そうでもあるのだけれど、なぜ僕が「はてな砂漠」というタイトルを思いついたのかについて説明されてはいない。ではなぜこのようなタイトルをつけるに至ったのかというと、理由など無い。しいて言えば、前のブログタイトルが確か「.」*1だったので、何か違うタイトルをつけようと思った。そのときに飛んできた電波が「はてな砂漠」だった、というくらいのことしか言えない。

ではなぜ僕は「はてな砂漠の由来」などというエントリーを書いたのだろう。実際キーワード「はてな砂漠」の内容は僕のブログの説明としてぴったりだ。あとから冷静にそう思うようになった。プロフィール欄にリンクを張ったのもそれからのことだ。

つまりはこういうことだ。なんにもない。からっぽだ。「はてな砂漠の由来」などという見出しがまずかった。けれど、僕にとってはこのような出来事がアイデンティティーだ。さらにいうと、僕はこうして降って湧いたような出来事でやっとそのときそのときのばらばらな自分をブログへと取り敢えずばらばらなままアイデンティファイし、定着するきっかけを得た。僕は忘れやすく、飽きっぽい。定着されていなければ忘れてしまったということにさえ気づかないだろう。

なんて頓珍漢さだろう。自分で書いていて呆れる。こうして文章にしてみてやっとわかる。けれど、やっとわかったからといって、これから先、頓珍漢ではなくなるわけでは無論ない。僕は何か明確な目標を持って生きることもできなければ、その日その日をなんとなく乗り切っていくこともできない。ひきこもりだから現在や未来に不安があるにしても、実際は何か目標を持って続けようとしても根性が無くて続かなかったり、その日その日をなんとなく生きているんじゃないかと思う方もいるかもしれない。けれど僕は内容はともかくとしても、最近は一応毎日ブログを書き続けているし、後者については、その日その日を周りから孤立していても、気にせずになんとなく生きていくことができなかったからひきこもったのだ。

話が脱線するようだけど、「自分にできることからコツコツと」、などという言葉があるけれど、これは一体なんだろう。僕の場合、「自分にできること」というのはブログを書くということなのだろうか。じゃあ、つぎは?こつこつとブログを書き続けたら何か根性や体力や経験がついて「次にやるべきこと」が見えてくるのだろうか。何の素養も無いのにこんな作文を毎日書いているだけで何か見えてくるというなら、作文や読書感想文を書かされまくる学生は、自分のやるべきことが恐ろしくよくわかっていることになるけれど、僕が学生の頃、まったくそんなことは無かった。逆にうんざりして、何も考えたくなくなるばかりだった。主観的であるように見せて、その実主観性など微塵も無い「〜と思いました」メソッドばかりでちっとも終わりに辿り着かない、原稿用紙をただ指定された文字数以上で埋め尽くそうとする、完走出来ないとわかりきっているフルマラソンでしかなかった。完走できなくても何かが残る、という向きもあるだろう。完走できなくても何かが残るとしたら、それはすでに、以前何かを成し遂げた経験がある場合だ。その経験でもって、完走できなかった部分を補っていくのだ。お前には何も成し遂げたことが無いのか、と問われれば、あるかもしれない、と答える。それは、中学校を卒業したことと、大学入学資格検定に合格したこと、そして、普通乗用車の運転免許だ。やるじゃないか!そう思ってくれる方もいるかもしれない。あくまで卒業し、合格し、免許を取ったというに過ぎない。過小評価しすぎではないか、そう思う方は多いかもしれない。どうかはわからないが。つづく?

*1:純然たる「ピリオド」である。