マルキ・ド・サド

図書館から借りてきたサドの小説を読んでいる。この本、筑摩の文学全集の一冊で、三段組みで字も小さいので、なかなかページが進まない。いまのところ「小説論」という短い評論と、「司祭と臨終の男との対話」を読み終わって、「美徳の不幸」を読み始めているところ。サドっていうと「サディスト」のイメージがあるけれど、案外そんなことはなかった。

何しろ自然というものは、モラリストが描いて見せるよりずっと奇怪なもので、モラリスト政治学が規定しようとする枠を常にはみ出すのである。その目的においては一様であるが、その結果においては不規則きわまりなく、常に動揺している自然の体内は、かわるがわる、人類の贅沢に役立つ宝石を噴き上げたり、命取りになる火の玉を噴き上げたりする火山の内部に似ている。それは地上にローマ七代善帝やティトゥス帝を生み出すとき、偉大であるが、アンドロニクス帝やネロ帝を生み出すとき、凶悪である。しかしそれが常に崇高で荘重で、つねに私たちの研究や、絵画の対象や、敬虔な賛美に値するものであることに変わりはない。なぜなら自然の意図は道であって、自然の気まぐれ、あるいは自然の要求の奴隷に過ぎない私たちの、自然に対する感情を決定すべき尺度となるものは、自然が私たちに与える試練では全くなくて、その結果がどうあろうと、自然の偉大、自然のエネルギーというものに違いないからである。(小説論)

モラリストを批判してはいるけれども、これは外から眺めて攻撃しているのではなく、モラリスティックな価値観を受け入れつつ、その論法に従い、その論法を用いることで批判している(実際ヴォルテールの作品を評価しているし)。モラリズムをある方向に極限まで押し進めればモラル自体が変貌し、こういう自然観が論理的帰結として現れてくるものなんだろう。けれど、サドは別にこの世(自然)はいつでも人間の考えた秩序に従うわけではないからといって、人間もその秩序に従う必要はないと考えているわけではない。

現実ではできるだけ美徳を心がけることが必要ではあろうが、しかしそういった規則は、自然のうちにあるのでもなければ、アリストテレス哲学のうちにあるのでもなく、ただ私たちが私たちの幸福のために、全人類がそれに従うことを希望しているに過ぎないのであって、そんなものは小説においては一向に本質的なものではなく、私たちの興味を誘うものですらない。なぜなら、美徳の勝利ということは、かくあらねばならぬ物事の状態であって、私たちの涙はそんなとき、流れるより先に涸れてしまうものだからだ。然るに、もし厳しい試練の末に、ついに美徳が悪徳に打ち負かされるのを見た場合、私たちの魂は必ず苦痛に引き裂かれ、その作品は私たちを激甚な感動でゆすぶり、あたかもディドロが言ったように、「私たちの心は逆運にもてあそばれて血みどろになる。」こうなれば疑いなく、興味が呼び起こされるはずであるし、それのみが成功を約束するのである。(同上)

だから問題は「どこからが現実でどこからが現実ではなく虚構(小説)か」といったことにあるのではないんだろう。だからといって「現実とは何か、そして虚構とは何か」といった問いを立てたのでは同じことだろう。まずは虚構=問いが打ち立てられなくてはならない。そうでなくては上記の二つの問いがそもそも立てようがないから。