海の表情

青空の中に、空の高さを感じたような気がした。青空には違いないのだけれど、空までの距離を遠く感じた。明日は晴れるだろうか。もういちど確かめてみたい。けれど、明日見たらもうすっかり高くなっているかもしれない。もしかしたら雲のせいかもしれない。夏場の雲は積雲や積乱雲のような大きな雲ばかりだ。そのような雲ばかりが空に浮かんでいれば、青空よりもそちらにばかり関心が向いてしまい、空が近く感じられる。あれだけくっきりと高い山のように空を切り取っていた雲の輪郭が薄れ、虚空に溶け込んできている。秋は残暑が終わったと思ったらうすい灰色の空から雨を降らせながらいつの間にかやってきて、それが終わったと思ったら遠くの空に小さな雲を浮かべ、冬を強く感じさせながら去る。残るのは、高く青白んだ冷たい空だ。

僕は今海の近くに住んでいる。*1真夏の海をじっくり見たのは、これが初めてだ。最後に海で泳いだのは小学生の頃だから、もう十年以上も身体を海水に浸けたことが無い。僕は、他の季節の海を、まだ知らない。秋の海はどんな感じだろうか。また海を見たくなってきた。

海の表情と書いたけど、僕は海の表情を知らない。表情というのは、単に笑顔や怒った顔があるとかいうのではなくて、それらの顔と顔の変化の関係のことを言っているような気がする。なぜ海のことについて書いているのに空の話をしていたのか。これは身振りだと思う。海の表情には空と雲という身振り手振りが伴う。だから空というのはそれだけでは首の飛んだ胴体みたいなものだ。海の無い地域の住民は、顔を見ないで身振り手振りだけを見てるのか。そう問われたらそうだと思う。自然は別に人ではないんだから。

夏の海は、七月の終わりごろの海は穏やかだった。岸壁やテトラポットに向けてやってくる波は波頭が緩やかでぶつかってもちゃぷりという音しか立たなかった。書いたかどうかめんどくさくて見ていないけど、お盆が終わった頃あたりにもう一度海を見に行った。海面の波の立ち方が違った。波頭が頂点を形成して、テトラポットにぶつかって音を立てていた。母がお盆を過ぎた頃からあとの水は危ない、あの世の人間に水の中に引きずり込まれる、とか言っていたことを思い出した。

*1:とはいっても、自転車で二十分ほど掛かるけど。