はてな砂漠の由来について・追記

つづく?となっていたけれど続けられない。ひとしきり書いたらどうでもよくなった、というのが本音だけれど。いや、やはり続きを書こう。書ける様な気がしてきた。続きといえるかどうかわからないけれど。まず一つ目は一応不登校にならずに卒業できたけれど、一緒に遊ぶ友人などいなかった。自分からは何一つ話せないのだから。同年代の人間と会話するためのいかなる話題のパッケージ化されたストックも無かった。そもそも話題などという概念を知らなかった。今ではわかるけれど当時は、クラスメートが友人たちと会話を成立させるために、あらかじめ話題を用意していることなど気づきようもなかった。当時どころか今でもできないが。高校に入学してもできなくて、机にひじをついて目を閉じていた。夏休みが終わってから一人で教室にいることに耐えられなくなり、半年で学校に行けなくなった。担任は熱心な人で、進学校で忙しいのに、そして遠いのに僕の家まで来てくれたりした。しかも、何度も。けれど、僕にとってはそれこそが苦痛だった。一時行けなくなっても休学してそれからまた新しく始めればいい、自分はまだしばらくはこの学校にいるからいつでも相談してくれとも言ってくれた。けれど、僕にとってはそれさえもさらなる苦痛だった。自分が存在したという痕跡をいったん消し去りたかった。抱えているものを捨て去って空っぽにしてしまいたかった。これは甘えだろうか。けれど、もし甘えであるというなら、僕はこのとき先生のせいいっぱいの厚意にこそ、甘えるべきではなかったのか。甘えに乗っていれば、何もかもお膳立ては整えてくれたことだろう。僕は、それが苦痛だったのだ。自分で歩いていく足腰の強さなどもとからありもしないし、それを鍛える術など無論知りもしなかったのに。思うに、「甘え」という言葉によって指示されている内容には、決して交わることの無い二つの方向性がある。それは、自分に甘えることと、人に甘えることだ。その極限は、人に甘えないことによって自分に甘えることと、自分に甘えないことによって人に甘えることだ。

今度こそ駄目。これ以上書けない。甘えかどうかで脱線した。そうだ、大検のこととか、車の免許のこととか、まだ書いていない。つづく?